口元が引き攣る。内心でブンブンと頭を振る。
猫は、カードを掠めた時とは比べ物にならないくらい緩慢な足取りで先を行く。足の長い霞流なら少し早歩きをすれば見失うコトはないが、こちらが歩調を速めて走り出せば、猫の方も駆け出すだろう。
二・三度立ち止まってはこちらを振り返る仕草がまるでこの状況を楽しんでいるかのようで、少し癪だ。
こんな寒い中、猫に遊ばれるワケ? でも、カードって大切なモノなんだよね? 買い物ができるモノなんだろうから、お金と同じくらいの価値があるのかな? だったら無視するワケにもいかないよね。
「ゴールドって、クレジットカードの事ですよね?」
「お前のような貧乏人には縁のない代物だ」
美鶴は口を尖らせ、意地悪をしてやろうかと腕を伸ばす。ここで美鶴が再び腕にしがみつき足手まといになれば、霞流は猫を見失ってしまう。そうすればカードは戻ってこない。
ちょっと幼稚かな?
思い直し、伸ばした手を引っ込めようとした時だった。
「ん?」
唐突に霞流が止まった。少し後ろを歩いていた美鶴は思わずぶつかりそうになる。
「うわっ 何ですか?」
なんとか急停止し、霞流の視線を辿る。その先で、白猫がパタパタと尻尾を振っている。毛の長い、いかにも金持ちの家で飼われていそうな真っ白な猫は、これまたいかにも金持ちそうな女性の腕の中で、澄ました顔で丸くなっている。
「まったくもう」
女性は猫の背中や頭を撫でながらため息をついている。
「勝手に行っちゃダメって言ってるでしょう?」
まるで息子か娘にでも話しかけるようなその声に、怒っているような雰囲気はない。
「あぁら、何を咥えているの?」
甘ったるい声を出し続ける女性は、猫の咥えているカードを手に取り、こちらへ顔を向けた。そうして少しだけ目を見開いた。
「あらぁ、慎ちゃんじゃない」
霞流が少し会釈をする。
「驚きました。お久しぶりですね」
「ホント、久しぶりよねぇ」
「いつこちらに?」
「今朝よ。久しぶりに名古屋で仕事があってね」
相変わらず猫を撫で続ける。
「せっかくだから店にも顔を出したいと思ってね。みんなにも会いたいし」
「バーテンの子も悦びますよ」
その言葉に女性は意味ありげな笑みを浮かべ、そうして小さく首を傾げる。
「それはそうと、慎ちゃんはこんなところで何をしているの?」
霞流は困ったようにため息をつく。
「そちらの御猫様に、大切なカードを取られてしまいましてね」
白い指で女性が持つカードを指差す。
「あらぁ、これ慎ちゃんのだったの」
まじまじと見つめ、あっさりと差し出した。
「ダメよ。簡単に盗られちゃ」
「気をつけます」
そっちの躾がなっていないからだろう、などといった言葉は曖にも出さず、両手で恭しく受け取る。
「で? 慎ちゃんもこれから店行くの?」
「そのつもりです」
「そちらのお嬢さんと?」
美鶴へチラリと視線を送り、口の端を吊り上げる。
「これまた随分と可愛らしい彼女ね」
「ただの友人ですよ」
「そんなお若い友人をお持ちだとは知らなかったわ」
「まだ小娘ですよ。あなたとは比べ物にもならない」
なにっ!
キッと睨み上げる美鶴の視線に、女性は手の甲を口に当てて高笑い。
「オホホホホッ 相変わらず慎ちゃんは面白いわね」
すでに酔っているのだろう。それとも霞流の言葉に機嫌を良くしたからだろうか。女性は楽しそうにユサユサと身体を揺らしながら、大きく口を開けて笑う。
「最高よ。今夜は最高の夜になりそうだわ。久しぶりに慎ちゃんと飲めるなんて、考えただけでもゾクゾクしちゃう」
まだ誰も一緒に飲むなどとは言ってもいないのに、女性はもう決まったかのように言う。
「今夜は飲むわよ、覚悟しなさいね」
ニヤリと笑い、そうして首だけを背後へ向ける。
「ちょっと、カイちゃん。この子お願い」
「はい」
呼ばれて、背後の暗闇から一人の男性が姿を現す。まるで闇の隙間に溶け込んでいたかのような彼は、差し出された猫を受け取り、慣れた手つきで抱きかかえた。
「おやおや、新しい男性ですか? 焼けますね」
「あら、ただのオトモダチよ」
煙草を取り出し、肩を竦める女性。
「でも可愛い子でしょう? 馴染みのペットショップの店員の子でね。とっても猫の扱いが上手なのよ。この子に任せるとね、機嫌が悪くってもすぐに直っちゃう」
紹介され、男性は小さく会釈する。その姿に霞流は、頭をさげる事も忘れて固まった。
嘘だ。
だが、面影は残っている。
月日が経ってもその顔立ちを忘れる事はない。もともと人目を引くほど綺麗な顔なのだ。忘れようにも無理なのかもしれない。
視一視する霞流の視線に気づき、男性の方も見返した。そうして、やはりこちらも瞠目した。
無言のまま向かい合う二人を訝しく思う美鶴。
「霞流さん、どうかしましたか?」
「ん? 何? どうかしたの?」
女性はハンドバッグの中から小瓶を取り出し、身に降りかけながら興味なさげ。
「霞流さん?」
再び問いかけ、袖口を摘んで引っ張る美鶴に返事をする事は無く、霞流はただ相手を凝視するのみ。他に出来る事はと言えば、やっとのことで小さく口を開くコトくらい。
「涼木」
相手の片眉がピクリと揺れる。
「霞流、なのか」
美鶴は、袖を引っ張る手を止めて首をまわした。
霞流さんの知り合い?
そんな美鶴の頭上で、擦れたような声がする。
「涼木、魁流」
ん? スズキ? スズキカイル?
どこかで聞いたことのある名前。
カイル? 魁流?
記憶を手繰り、そうして今度は美鶴が目を見開いた。
ツバサの、お兄さん?
暗闇の中に香水の派手な香りが充満し、猫がポンッと尻尾を振った。
------------ 第15章 薄氷の鏡 [ 完 ] ------------
|